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サドについて――原ジャスティーヌ
三日前にバイクで事故を起こしまして、いろいろ腫れたり切れたり磨り減ったりしている肉体でもって、サドの書籍を読んでいたのですが、基本的な枠組みとして『自然に対しての人間の無力』みたいなことを悪徳者は常に論理の根底においているように思われます。逆に言えば『人間の悪徳に対する自然の無関心』つまり、人間が悪を行い得るということは、神=自然がそれを容認している。もし悪徳が自然にとって必要でないものならば、神はそれを当然人間に行えないように創る筈である、云々。
こういった論説は構造としてほぼ倫理的矛盾点が見当たらない。神を絶対者としてみた場合において、悪徳を行える人間を創ってしまったなどという失敗は当然許されない。ぼくらのなかに悪徳に対する誘惑があるのは、そもそも神がぼくらに悪徳を許しているはずだし、もっと言ってしまえば必要ですらある。
たぶん、気胸です。肺の空気が洩れてるっぽい。むかし一度なったことがあるのですが、ものすごく症状が似ている。肩を内側に強打した時に肺に穴があいたっぽい。ってことで、座ってられないので、はしょります。
で、この論理の穴、悪徳者が得々と語るさかしい理論の穴は、つまりはフリーウィルです。人間には、人間だけには他の動物と違って自由意志が神の恩寵だか罰だかいぢわるだかで与えられている、与えられてしまっている。動物は罪を犯すことが出来ない。どんなに野蛮で獰猛な卑しい動物も本能として行動している範囲においては、罪は発生し得ない。けれども、人間にはフリーウィルがある。
思い出してみると原罪。ぼくたちは恐ろしい罠の中で、自尊心と快楽と誘惑と正義と、そのたもろもろについて、いちいち善悪の判断を迫られているといえます。逆に言えば、どんだけ神さん、おれら信頼してくれてんの!ですね。もっと馬鹿に創るか、もっと賢く創るか、どっちかはっきりして欲しかったです。