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Teach Us To Outgrow Our Madness――裏――






 バーは最高の時間。まだ裏返したままの灰皿がテーブルの上に動かず、その複雑にカットされたガラスの表面も一枚板のバーカウンターの木目も美しく、そしておそろしく丹念に磨き込まれており、点いているのかいないのか判然とはしないほどの微妙で淡いダウンライトの照明と小さな窓から入る夕闇時の外光の二つを薄暗い位置に拮抗させたまま、滑らかに、なによりも清潔に、ただただ映してだしている。客はまだ彼一人だけだ。バーテンはキッチリ三角に作った彼の顎鬚を気にしている模様。……
 彼は霧と靄の違いについての思考に、ゆったりと浸っている。いや、浸っていた。いや、浸っている、のか。それというのも彼の思考自体が深い霧のかなたに沈み、ほの明るい靄に覆われてしまっているからだ。そのため霧と靄の明確な差異にまでは想いが届かない。
 女を待っていた。約束の時間までまだしばらくの時があった。だから彼は霧と靄の違いのことなど考えて、退屈を甘くすわぶっているのだ。
『つまりは、空気中の水分量って訳だ。視界の届く距離で……つまり、その呼び方を使い分けているのだとしたら、……すると、だな。俺のいるところから俺の視線が霧がある場所を通って、霧がない場所を過ぎ、また、霧が発生している付近を見たとしたら? 俺からは靄に見えるんじゃないか? 視界が及ぶ距離を基準としているのにもかかわらず、それを靄と呼ぶのは不正確であるどころか、明確に間違いでさえある。二つの霧と一つのクリアーな空間と呼ぶべきものを、その時点の俺には知りようがないじゃないか』
 ふと彼はどうでもいいことを考えていることに気づく。口もとがいやらしく蠢く。笑っているのだ。彼はいつの間にか眼を瞑っていた。
 何人かの男たちの話し声で眼が覚めた。バーテンが不機嫌な視線を寄こしたので、彼は作り笑いさえすることが出来ず、グラスを持ち上げてもう一杯くれと合図した。氷がすべて解けてしまっていて、酒と水に分離していたものが持ち上げた反動で混ざりこんだ。うっかり見つめそうになるほどに美しい。
 鞄を探る。資料があったはずだ。ネットに掲載するための記事――脱力してしまうほどの小銭が稼げる。けれども彼にとってそれは仕事、なのだ。――の締め切りは今週末だったはずだ。『ユーモア★グラフ』『世界裸か美画報』『奇譚クラブ』『裏窓』『100万人のよる』、すべて昭和のエロ本だ。苦笑してしまうほど長閑で、しかもそれでいておそろしく猥褻だった。
 たとえば、今からちょうど半世紀前の『100万人のよる』昭和36年4月号には、「春色お座敷踊り」と言う特集が組まれ、粋に鉢巻を締めた裸の女が、踊りのポーズを取って写真撮影されている。串本節だ。その替え歌が裸の女のポーズする横に添えられている。崩れたゴシック体の文字で。

 だまってさせときァ膝までぬらす
 さても子供の水あそび
 アラヨイショヨーイショ
 ヨイショヨイショ ヨイショ

 深いか浅いか知らないけれど
 知らぬ男が身を投げる
 アラヨイショヨーイショ
 ヨイショヨイショ ヨイショ


『こんなもんで昔の人は抜いてたんだなァ』
 彼はため息とともに声にならない言葉を吐き出す。『けれども、これでどういう記事を書けってんだ、一体全体』
 女はまだ来ない。いや、もしかしたらやってきたのかもしれないが、彼が眠っている間に起こったことは彼には当然知りようがない。
『いつになったらくるんだろう、そういえば約束は何時だっただろう、今日であっているはずだがひょっとすると明日だっただろうか、携帯にKの電話番号がない、約束したのはKだっただろうか、Uではなかっただろうか、Uの電話番号もない、おかしい、というよりも、……』
 彼は一件も電話番号の登録されていない携帯電話の画面をしげしげと眺める。
 三千メートル上空を緩やかに下降しつつある大型旅客機が彼の眠りのすぐそばを轟々と過ぎ去る。もうすぐ朝だ。
 バーテンは三角の髭を引っ張って『お客さん、おきてください。もう閉店です』を何度も口の中で稽古しつつある時間だ。眠る男の肩に手を触れた途端、パタパタと安っぽい音をたてて世界が崩れだすことを、バーテンはまだ知らない。

< 了 >


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