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備忘録――『反哲学入門』とか『孤独の発明』とかから




「超越論的主観性」=「それ自体は世界を超越していながら、世界の存在の可能性を基礎づける主観としての機能である」

「デカルトのいう「理性」は、神によってわれわれに分かち与えられたものであり、われわれ人間のうちにありながらもわれわれのもつ自然的な能力ではなく、神の理性の派出所とか出張所のようなものです。だからこそ、そこには個人差はなく「公平に分け与えられていて」、これを正しく使いさえすれば普遍的な認識ができるのであり、のみならず、世界創造の設計図である神の理性の出張所なのだから、これを正しく使いさえすれば、世界の奥の奥の存在構造を捉えることもできるのです。
 わたしたち日本人も、「理性」という言葉を使うことはあります。「あまり感情的にならないで、理性的に話し合おうよ」といった言い方をすることは珍しくありません。しかし、そうしたばあい、わたしたちが考えているのは、やはり人間の持っている認知能力――生物として環境に適応するための能力の一種――の比較的上等な部分のことなので、わたしたちのもつほかのさまざまな自然的能力と同じように個人差もあれば、その時どきで働き方に波もあります。こんな「理性」の概念でもって、デカルトの言うような神的理性の派出所としての「理性」を理解しようとしても、できるはずはありません」

『モナドロジー』
「これからお話しするモナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である。複合体がある以上、単一な実態はかならずある。複合体は単一体の集まり、つまり集合にほかならないからである」

孤独と幽霊は理性の定義として通用するかもしれない? また超越論的主観性とは、方法としての懐疑であると同時に、方法としての孤独に繋がるかもしれない?

レヴィナスの言葉を思い出すこと!
「独我論〔唯我論〕は、錯誤でも詭弁でもない。それは理性の構造そのものである。理性が結び合わせる諸感覚の『主観的』性質の故ではまったくなくて、認識の普遍性、すなわち、光の無制限性と、いかなるものにとってもその外に存在することができないという不可能性との故にそうなのだ」

西洋の「つくる」思想と日本の「なる」思想→丸山眞男→実感信仰の批判『日本の思想』
近代性としての徂徠、諭吉の称揚


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