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二進数も Я чайка と叫ぶ
ニッポンのトウキョウとタイランドのチェンマイのちょうど中間にその場所はあったという。今はその場所自体がもうなくなってしまったと田口くんからわたしは聞いた。
田口くんは、なんというか、やっぱり田口くんらしいというか、苗字の字ヅラを見てからすごく納得したのだけれど、こう、四角ばってるというか、見た目がカチカチしている。「え? そうかなー」と田口くんは言うけれど、「田も口も全部四角じゃん」とわたしは答える。骨も軽量の角形鋼管で出来てるんじゃないかと時どき考えるほどだ。
で、田口くんは、口ロロのいとうせいこうの部分を、幾度も幾度もハミングを織り交ぜて四角い口で弄んだあと、間をもてあましたのか、その場所のことをポツポツわたしに語りだしたのだった。四角い顔をわたしにじっと向けて。
「てかなにする場所なんさ?」
「なにって、一応はバーってことになっていたみたいだけれど」
「なんていう名前のところ?」
「うーそれがさ、まったく思い出せないんだよね、とにかく、キグルミを着ないと駄目なの。ギコ猫ってしってるだろう? あれ、あれ着て炙ったスルメかなんかしゃぶって酒呑んで話すんの、だからさ、誰が誰だかわからないんだよね」
「お、仮面舞踏会みたいじゃん」
「そ。つか、結社、秘密の。秘密結社。で、その日の深夜、その場所を訪れたのは、さ。ニッポン人の男二人だけだったらしい。いつものように、ってか俺は二回しか行ってないけど、とにかくマットな照明で、さ。こう、のっぺりと均一に薄明るくて、さ。視界がすげえ限られてるから広くは見えないけど、百人でも入れるスペースがあるんだよ。や、ほんとは、何万人だろうが収容可能だった、確実に、仮想的空間? なの」
わたしは目を瞑って田口くんのポツリポツリと零す言葉を丹念に掬い上げて全体像をくみ上げる。
「それでさ、テロルの計画だな、いちばん陰険で卑劣なテロルを計画してたんだ……」
二人の男がカウンターに片肘を付き合って、斜めに向かい合うように座っている。口調からは男だろうと思われる。口調から? かれら二人はキグルミを着ている。猫の。ギコ猫のキグルミを着ている。田口くんが教えてくれたとおりだ。
わたしの視界はかれらの前方から螺旋を描いて上昇し、鳥瞰的なカメラへと移り変わる。
「で……」右側が言う「一度めはテストだ。渋谷でやる。制服を着てる女。茶髪に限る」
「どうやって逃げる?」
左側が酒を啜りながら卑猥な調子で問いかける。
「逃げる? 逃げない、きっちりその場で逮捕される」右側は真剣なようすだ。「だからテストなんだ。俺たちはつかまる。おれたちの後に続くやつが出てくるのを待つ」
わたしは田口くんが言っていた陰険で卑劣だというテロの内容が気になって仕方がない。
「つか、テロルってテロでしょ? どんなテロよ?」
我慢が出来なくなって、四角い顔を見つめてしまう。二人の、あるいは二匹のギコ猫がふっと消えたあとで、殺風景な田口くんの部屋に、わたしと田口くんだけがとりのこされる。
「あー、おまえ覚えてる? 二カ月ほど前にさ、渋谷で硫酸、女子高生たちの顔にぶっかけてまわった二人組いたじゃん、あれ」
「覚えてる、つか……」
わたしはネットに流れた女子高生たちの『その後の写真』を思い浮かべて絶句する。薬品火傷は恐ろしい。焼け爛れ溶けた皮膚が恐ろしかった。かのじょたちのうち、幾人かは自死の道を選んだとネット上に洩れてきていた。
「なんで、硫酸なんて、手に、入れることが、出来た、んだろう? あんなに危ないもの、すぐに、手に入るもの、なの?」
息が苦しい、苦しくて苦しくてしかたがない。苦しいというか速い。何かがすごく速くて追いつけなくて、掌とか額とかに汗がじッと滲む。汗は恐ろしく遅く滲み出てきて、速い何かを加速させる。息が出来ない。
「うーん。つか車のバッテリーあるだろ。あれ、中身、硫酸。水で薄めてるけど、水だけ蒸発させたら、ってか、蓋開けてたら、濃くなる」
「でも、なんで? 目的は? おかしいじゃん、女子高生の顔溶かしてなんになるの?」
「不安だよ、不安にさせるため。まず世の中めちゃくちゃにしないと、なにも変えられない」
わたしは気絶した。はじめて気を失ったので、それが気絶なのだかどうだかわからないけれど、気づくと朝で、ベッドで横になっていた。田口くんは四角い口をあけて涎をたらして合成皮革の硬いソファーで眠り込んでいた。
夢を見ていた。ぼんやりとした夢だったけれど、ほんの少しだけまだ掌にひっかかっていた。
わたしと田口くんは、ギコ猫のキグルミを着て二人、どことも知れないバーで話していた。
「なにかを変えるってそんなに大事なことかな」
わたしか田口くんのどちらかが言った。
「普通に変わっていくものだけれど、もしも方向が間違っていると感じたなら、変えなきゃ駄目だろうね」
これも田口くんかわたしのどちらかが答えた。
「小説書こうよ。もしかしたら少しでも変わっていくかも、じゃん」
これは確かにわたしが言った。あついなーと目覚めたわたしは恥ずかしくなるけど、夢の中では、そのときは、ぜんぜん恥ずかしくなんてなかった。当然のこと、だった。文學界新人賞の締め切りが来月末に迫っているのだ。
「じゃあ、今日からひと月でお互い一〇〇枚以内で書こう、六月十六日にそれぞれ見せ合って、意見の交換をする」
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ヤー・チャイカ――わたしはカモメ。池澤夏樹氏の小説にこの『ヤー・チャイカ』という題名の作品がある。畏れ多くもこの下らなく、そして冴えないぼくが、あの高名な作家自身がこの世に産み落とした分身ともいうべき作品の名前の一部を援用せざるをえなかった理由は他でもない。だれかが、ヤー・チャイカ! と叫んでくれることを望むからだ。ゼロとイチとのこの二進数の仮想空間で。
一九六三年六月十六日、ソビエトの女性宇宙飛行士テレシコワが、ボストーク六号で宇宙へと飛び立った。かのじょが宇宙空間で美しい地球に感動し、声を詰まらせ、けれども堂々と発した第一声は『わたしはカモメ、Я чайка』だ。