そこにいない人を思い出す契機――村上春樹『午後の最後の芝生』について
何かを放り込む
穴ぼことして、文中に存在している代名詞はぼくにとっていつも奇妙なものです。
彼、彼女、それなどは、一定の制限を受けながらも、なにかを代入すべき真空の空間、あるいは代入可能な留保された場所として、常にぽっかり口をあけて文章の中でなにかを待っている。子供の頃ぼくは、どんなものにでも変幻自在に変わるそれを、カメレオンのようだと思っていました。ぐるぐる動く目玉を持つ、なにか気味の悪い存在。
村上春樹の初期の作品に『午後の最後の芝生』という短編小説があるのですが、とても評価の高いものだそうです。ぼくもとても好きな作品の一つなのですが、通常、デタッチメントやコミットメントという文脈で語られることの多い作品です。
今回は、その作品にあらわれる傍点つきの
「彼女」と傍点のない「彼女」になにが入るのかということについて、簡単に書いてみようと思います。
物語の後半の部分――芝刈りに行った先でそこに住んでいる大柄の女性にサンドイッチをご馳走になり、その女性の娘(おそらくは死んでしまった)の服を見せられる場面です――をすこし引用してみます。
「どう思う?」と彼女は窓に目をやったままいった。「彼女についてさ」
「会ったこともないのにわかりませんよ」と僕は言った。
「服を見れば大抵の女のことはわかるよ」と女は言った。
まず、「どう思う?」と訊ねるこの時点では「彼女」とは大柄の女性をさします。そして、大柄の女性は、すっと「彼女」という代名詞の場所を空けて、そこに自分の娘を代入します。傍点つきの「
彼女についてさ」と続けるわけです。引用の第三ラインでは大柄の女性、すなわち傍点つきの
「彼女」の母親は「女」に変わっています。
娘の服に誘われるように「僕」は別れをきりだされたばかりの恋人のことを思い出します。どんな服を着ていたか? しかし漠然としたものしか浮かび上がってきません。スカートを思い出そうとするとブラウスが消え失せるといった具合です。
娘の服はこの場合、比喩的にいえば代名詞としての役割を持っているように感じられます。目の前にある服は女性用のものであることから、「女の娘」と「僕の恋人」が繋がる。着られていない服(空白)という回路で否応なく繋がってしまう。そして、恋人の服装を思い出そうとするわけです。しかし思い出せない。なぜなら僕は本質的には恋人とデタッチメントの関係にあったから。そして、こう続けられます。
彼女の存在が少しずつ部屋の中に忍びこんでいるような気がした。彼女はぼんやりとした白い影のようだった。顔も手も足も、何もない。光の海が作りだしたほんのちょっとした歪みの中に彼女はいた。僕はウォッカ・トニックをもう一杯飲んだ。
ここで、「彼女」という代名詞は三回登場します。前二回の傍点つきの
「彼女」は、大柄の女性の娘です。
「彼女」が幽霊のように部屋にやってきます。白い影のように、顔も手も足もなく。空白として部屋を漂っています。そして、最後に傍点つきの
「彼女」は傍点なしの「彼女」になります。すなわち僕の恋人です。空白を埋めるようにぽっかりと開いた場所に、僕の恋人が代入されます。そしてさらに続きます。
「ボーイ・フレンドはいます」と僕は続けた。「一人か二人。わからないな。どれほどの仲かはわからない。でもそんなことはべつにどうだっていいんです。問題は……彼女がいろんなものになじめないことです。自分の体やら、自分の考えていることやら……そんなことにです」
「そうだね」としばらくあとで女は言った。「あんたの言うことはわかるよ」
もしかしたら、とぼくはおもいます。もしかしたら、この部分では「彼女」に「僕」すら代入されているのではないか? すべての事柄と本質的にデタッチメントの関係にある、恋人、ぼく、大柄な女性の娘。その時代(あるいは今現在もそうかもしれません)の若者が共通するものとして持つ性向してのデタッチメント。
ヘミングウェイの短編小説に『何を見ても、何かを思い出す』という題名のものがあります。ぼくも絶えず、
何かを思い出しています。
何を見ても、どんなものを見ても
人はそうやって何かを引きずりながら生きていくものかもしれません。否応なく引き込まれるデタッチメントからコミットメントという通路を通って――。
< 了 >
参考
『村上春樹の短編を英語で読む』 加藤典洋著
『村上春樹イエローページ』 加藤典洋著