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どんな風に小説はできるのか?
ずっと以前ある方に小説を書く前につくっているプロットを、その段階で見せていただける機会がありました。その生の、まだ文章化されていないもの、芯の芯の真っ直ぐなものからフクザツな小説が出来る過程ってのを拝見させていただいたのですが、それはぼくの中でかなり大きな出来事でした。
で、です。
ぼくはそれを興味深く読ませていただいたのですが、逆のパターンもありうるかもしれない。ぼくが書こうとしている、まだ生の、それこそなにもいじっていないものを見て、面白く思ってくださる方もいるかもしれない。そんな淡い期待をいだいて、いま書いているもの――現在20枚ほどです――の、だいたいの骨格のようなものを書いてみたいと思います。
またもしかすると、これを――このくだらない雑文を――書いている裡にいまから書かれるものと、ぼくのいま考えていることどもとの意識できない隙間のようなものも、順次なにかの加減によって埋まっていくかもしれない。そんなような気もして書いています。
ぼくはまず50枚で書く、ということだけを決めて、何も考えずに書きはじめました。何も考えずというのはいい加減なことではなくて、本当に何も決めずに箇条書きで20行ほどのいわゆる『詩のごときもの』を書きました。なんとなく最近読んだカルペンティエルの影響下にある、恥ずかしい代物でした。
で、です。
その『詩のごときもの』を何度か赤面しつつ読み直していると、なにやらサマセット・モームの影響らしきものも見つかりました。そこで当然、カルペンティエルとモームの共通点のようなものを探す作業をしました。というのも、ぼくの中で二人の作家が交じり合っている(『裁尾』などという言葉がちらつきます、これは澁澤訳のサドですね)のは、おそらく確実だろうと思われたからです。
で、です。
おそらく二人の作家の共通点を見つける作業というのは――ここがぼくは大事だと思うのですが――とりもなおさずぼく自身を見つけることでもあるわけです。それというのも、ぼくが共通点を見出したわけですから。(これってすごく明白な事実なのですが、伝わりますか?)
結論として、おそらくモームに使う言葉としては不適切であろうことは重々承知の上で使いますが、二人の共通点は――というよりもぼくがその時思い浮かべていた二つの作品『失われた足跡』『月と六ペンス』の共通点は――ポストコロニアリズム的なカウンターとしての強烈な凡庸性。ほとんど逆差別とでもいえそうなアミニズム賛歌、でした。
ぼくはおそらくそういったものに惹かれる属性を持っているはずで、それを素直に書いてみようと決めました。
極端なアミニズムへの渇仰を書く。
つぎに、三人称が面白いので前回書き直したものよりも、もうすこし濃く、しっかりとした意図を持って人称代名詞で指示されている人と他の登場人物または作者を重ねたりズラらしたりする工夫をする。オースター初期のニューヨーク三部作的な、あるいは庄司作品の『薫くん』のような。
三人称をうまくズラす。
最後に、引用をうまく使うこと。Dost thou think, because thou art virtuous, there shall be no more cakes and ale? のように。
思いのほか纏まらない。おどろくほど纏まらなくて書いているぼくがいちばん驚いているのですが、題名だけは決まりました。つまりモーム+カルペンティエルまんまにストレートに。
『食器棚の頭蓋骨、あるいは時間旅行者たち』
カンボジアのアンコールワットを舞台に、アンコールワットを天竺だと勘違いした大昔の日本人の『落書き』を頼りに、ぼくが落書きのような小説を書く予定です。